宇部市松山町とはこんなところ

松山町交差点に位置する勤労青少年会館(昭和42年築)

宇部市松山町は、国道190号線と490号線の交差点より南東に位置し、約1.8kmに及ぶ細長い地域には小さな町工場も多く、昭和の佇まいを感じるエリアです。この松山町は、明治の終わりから昭和の初めまで、炭鉱と共に発展してきました。現在は病院、学校、銀行、コンビニなど生活に必要な施設が周辺に整っていますが、少子高齢化の波にのまれ、空き地や空き家が目立ち始めています。

松山町の地名の由来や歴史

路地裏には古い橋が残る 笹山橋:大正12年

現在の松山町周辺は、綺麗な砂浜が広がっていました。この砂浜には、当時の宇部村周辺を治める毛利藩家老福原氏により防風林となる青松が植えられ、もともと緑が浜という地名で呼ばれていました。明治から大正に入り、初めは地名も確かなものがなく「馬市場裏」などと呼ばれていたようです。この緑が浜の松林が現在の松山町の町名の由来と思われます。

松山町と炭鉱のかかわり

かつては貨物列車が工場まで走っていた

松山町の歴史は明治維新後、富国強兵政策の中から生まれたと言ってもよいでしょう。日本全国、鉄や石炭などが大量に必要とされ、宇部村でも沖見初炭鉱(明治29年)など数々の石炭採掘会社が設立しました。坑道から出た捨石の山いわゆるボタ山は埋立地の用途に使われました。松山町より海側の地域は、この沖見初炭鉱により埋め立てられ、炭鉱で働く人達が集まり急激に発展していきます。松山町が西から東へ一丁目~五丁目と細長くなっているのは昔の松林の名残なのでしょう。また松山町は「見初地区」と呼ばれています。見初という地名は、「初めて見るなにか」を連想しますが、実は「低いところを埋め立てた地域(溝埋め)」が由来のようです。「みぞうめ」が「みぞめ」になったと言う訳ですね。

松山町の見どころ

フェニックスの並ぶ現在の松山通り

松山町は炭鉱で働く人たちの為の、生活用品や娯楽、宿泊施設から炭鉱で使う機械などを作る工場などが立ち並んでいましたが、現在ではその名残がそこかしこに見られます。昭和40年代には宿泊施設(芸者屋小屋)のような建物が存在していましたが、平成に入り、昭和の面影も少なくなっています。この辺りは太平洋戦争での空襲被害を受けました。その為、戦後復興のシンボルとして現在の「松山通り」が建設されました。この松山通りには、昭和36年、道路中央部分にフェニックスが植樹され、地元の人はフェニックスロードと呼んでいます。また松山通りは、宇部祭りのパレードの出発点になっているため、宇部祭りの際はとてもにぎやか。屋上のドームがひときわ目立つ宇部市勤労青少年会館は、プラネタリウムと園内の樹木が癒しのスポットとして、市民に親しまれています。